琵琶湖の水を京都に送っている琵琶湖疏水の水路を船で行くのが「びわ湖疏水船」。この船を利用すると、琵琶湖側から京都の蹴上まで船で行くことができます。明治初期に作られた琵琶湖疏水は、当時の日本にとって一大事業でした。疏水船の旅については先に書いたエントリを参照していただくことにして、こちらでは琵琶湖疏水工事の立役者田辺朔郎氏と疏水関連施設をご紹介します。
船旅の様子はこちらをご覧ください。
田辺朔郎氏について
京都再生に大きな役割を果たした琵琶湖疏水は今も現役の水路です。明治初期の一大土木事業となった疏水工事の責任者は、23歳という若さの田辺朔郎氏でした。
彼の名前を知ってからまだ半年もたたない私が田辺氏について語れる資格なんてないのですが、田辺喜子さんの著書「京都インクライン物語」を読めば読むほど、田辺朔郎という人物に興味がわきます。
- 作者:田村 喜子
- メディア: 単行本
田辺氏は江戸時代末期、文久元年(1861年)、田辺家の長男として生まれました。祖父は儒者、父は西洋砲術士で代々学問で幕府に仕えてきたお家柄です。ただ父は朔郎氏が生後9か月の時に麻疹にかかり他界していて、朔郎氏にとって父親の記憶はありません。朔朗は4,5歳から英語や漢文の手ほどきをうけるなど、学問に対する真摯さ、熱意は抜群で、これは血筋なのかもしれません。
幕末から明治維新への混乱の中、江戸から焼け出されて、田辺家の下僕の家に厄介になることになりましたが、主従の恩義を忘れた男の仕打ちに母子でぐっと我慢しながらの生活を強いられたりしましたが、やがて静岡県沼津市に移ります。そこで叔父の田辺太一と出会いました。この叔父さん、熱心な開国論者でもありました。やがて太一おじさんが外務省に任官することとなり、東京に引っ越すのとともに朔郎たちも東京に移り住んだのです。この時、朔郎氏は10歳でした。外遊もこなした太一おじさんの影響を少なからず朔郎氏は受けていたようです。朔郎氏はその後工部大学校(今の東京大学工学部)に進学しましたが、ここにも叔父さんの影響が垣間見えます。
工部大学校で最先端の土木技術を学んだ朔郎氏は卒業論文のテーマとして琵琶湖疏水を研究しました。これが田辺氏と琵琶湖疏水との出会いです。それにしてもまだ実地で成果を出したわけではない学生の田辺氏を、日本の一大事業である疏水工事の責任者に指名するとは、当時の京都府知事、北垣国道氏の人を見る目というのか度胸というのか、そのリーダーシップには感じ入ります。疏水工事のあと、田辺氏は北垣氏の娘と結婚していることから、北垣氏はよほど田辺氏のことを気に入っていたのでしょう。
北垣国道氏と田辺朔郎氏は琵琶湖疏水の後も、北海道の鉄道敷設でもコンビを組んでいます。北海道の鉄道敷設のための田辺氏の貢献については、先ほどの本と同じ作者である田辺喜子さんが「北海道浪漫鉄道」にまとめています。
琵琶湖疏水に関係する施設
蹴上インクライン
琵琶湖疏水の水路を通り、船が荷物を積んで琵琶湖と京都の間を行き来できるようになったのですが、京都の鴨川と琵琶湖疏水の終点、蹴上船溜まりとは高低差が36mあります。この高低差を船を台車に乗せて移動させるインクライン(傾斜鉄道)によって、荷物を乗せ換えることなく、鴨川に出られるようになりました。
線路の上を走る台車に船を載せて、高低差を克服したわけです。
インクラインの脇には疏水工事で亡くなった方を慰霊する慰霊碑があります。一大土木工事の疏水工事では17名が亡くなりました。尊い人命が失われたことに胸を痛めていた工事責任者の田辺朔郎氏が私費を投じて建てた慰霊碑です。
このインクライン沿いは桜並木になっているので春も素晴らしい景色が楽しめます。次は桜の時期に来てみたいです。
琵琶湖疏水記念館(入場無料)
インクラインを下った場所には疏水記念館があり、琵琶湖疏水に関する資料が展示されています。
動画での解説の中では「語り:田辺朔郎」と出てくるシーンがあるのですが、本人の声が録音されていたとしたらすごいです。
こちらのフロアには精密な地図が展示されていましたが、当時のことですから手で描いたのでしょうね。この工事にかかわる人たちの緻密な作業には本当に頭がさがります。
インクラインの模型や京都市のジオラマもあり、疏水をわかりやすく紹介しています。
琵琶湖疏水の計画当初は水力は水車を回して動力を得る計画でしたが、諸外国では水車ではなく水力発電に活用していることを知った田辺朔郎氏は琵琶湖疏水も水力発電を計画変更を提案し受け入れられました。時代の変化を敏感に感じ取り、計画変更していく田辺氏の先見性と行動力は琵琶湖疏水をより価値あるものにしました。疏水記念館には水力発電に使われたペルトン水車も展示されています。
疏水記念館からは鴨川につながる運河を眺められます。
こちらでは京都市のマンホールカードをもらうことができます。幾何学的なデザインですが、御所車の車輪をモチーフにしているそうです。
敷地内には京都市の新しいデザインマンホールが設置されていました。マスコットキャラクターの「ホタルの澄都くん」と「ホタルのひかりちゃん」がデザインされています。こちらのデザインのマンホールカードも発行されるといいですね。
琵琶湖疏水記念館の公式サイトはこちらです。
ドラム工場
インクラインのレールの上を走る台車にはロープがつながれていて、このロープをウィンチで巻きあげて台車を動かしていました。その大きなウィンチが疏水記念館近くに残されています。
ドラム工場側から蹴上方向を見ると、なるほどインクラインがまっすぐ伸びているのがわかります。
蹴上発電所
疏水の水力利用は当初の水車から途中で水力発電に切り替わりました。水力発電により京都市内には電灯がともり、路面電車が走るようになりました。インクライン横には蹴上発電所があり、明治に作られた旧発電所は赤レンガづくりの建物です。
現在は新しい建屋で発電されています。発電所は関西電力の管轄で、定期的に見学会が行われているようです。
南禅寺水路閣
南禅寺と言えば、石川五右衛門が門の上から「絶景かな、絶景かな」と眺めを楽しんだという三門が有名ですし、紅葉の名所でもあります。この南禅寺の境内に水路閣があるのです。鉄道のアーチ橋を思い起こさせる水路閣は、南禅寺境内の景観に配慮しながら田辺朔郎氏が設計しています。とはいえ、歴史ある寺院の境内にこういう建造物を作ることに対しては、当時はきっといろいろな意見があったのではないかと思います。
橋脚部分にもアーチ形の穴が開いていて、遠近感たっぷりの写真が撮れるので、撮影スポットとしてもおススメです。
このアーチの橋の上は水路になっています。魚をとってはいけません、の看板がありました。
せっかく南禅寺に来たのなら、疏水工事とは関係ないけれど、三門にもあがってみましょう。一人500円です。
石川五右衛門になった気分で三門の上からの眺めを楽しみました。今の京都の町は近代的な建物も多くなりましたが、当時の街並みをここから眺めたら、確かに絶景だったことでしょう。
南禅寺境内の中も紅葉が進んでいて上からの眺めも格別です。
まとめ
琵琶湖疏水工事の責任者となった田辺朔郎氏は、疏水工事の成功の後、大学教授となりましたが、再び義父の北垣氏にこわれ、教授の椅子を蹴って北海道の鉄道敷設のため、北海道に赴きました。土木技術は不便な場所に住む人たちが暮らしやすくなるためにあるという信念を貫いた田辺氏の思いには本当に頭が下がります。次は「北海道浪漫鉄道」をたどってみたいと思いました。
びわ湖疏水船にお昼頃の便に乗れば、下船後に疏水記念館や南禅寺を回る時間がとれます。船旅も素敵ですが、一大事業の疏水工事を知る施設を回るのも社会科見学のようで楽しいです。日帰りで楽しめるコースとしてもおススメです。
びわ湖疏水船の公式サイトはこちら
びわ湖疏水船の運行時期や時刻表、席の予約は公式サイトから。